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多世代の福祉ニーズに応える ふくしの生協
2021-10-26

東京五輪の思い出

1964年の大会は10月だったから、東京の空は高く青かった。アジアで初めてのオリンピックに国民は熱狂したに違いない。半世紀後に首相となる秋田の少年も大きな感動を覚えたという。
とはいえ、メディアの力が弱かったころ、東洋の魔女の活躍は小さなモノクロの画面の中、マラソン中継のカメラも独走のアベベを追うばかりであった。私の五輪の記憶は切れ切れでぼやけている。
むしろ、圧倒されたのは翌年上映された市川崑の記録映画だ。迫力ある大画面に選手の肉体が躍り、時代の勢いと自信がそのまま表れた作品だったと思う。
そんな五輪に原色の思い出がある。今夏の大会ではあまり目立たなかったクレー射撃である。当時もマイナーな競技であり首都圏に会場として使える施設がなかった。競技場新設の計画が持ち上がり、埼玉所沢の郊外、何もない田園地帯の真ん中にバタバタと射撃場がつくられた。すぐにオリンピック道路ができ国道にもつながった。
ハコができたら次は人の用意、中学生をボランティアに仕立てるため、何も実体のないスポーツ少年団なるものが市内の中学で結成された。今では通用しない乱暴な手法だが、五輪を錦の御旗にして、なんの反対も出なかった。
その頃は学校が荒れていた時期で、運動部の猛者たちはツッパリが多かった。そこで、おそらく扱いやすいという理由で学級委員を団員にすることになり、めでたく私も駆り出された。団員がスポーツ少年だったかは非常に疑わしい。かく言う自分も統制の取れた行動、機敏な動作が、最も苦手とするところだった。リハーサルは大変だった。授業が免除される代わり、一糸乱さぬ分列行進、女子の団員とペアを組んでの国旗掲揚の練習が何度も繰り返し行われた。
何よりも厭だったのは支給されたユニフォーム。半袖の白シャツ、紺の帽子に半ズボンは幼稚園の制服のようだ。池袋に出かけるのを東京に行くと言っていた私たちの田舎者意識は強く、都会の子は冬でも半ズボンをはいているのに、埼玉の子に半ズボンはなじまなかった。
本番は楽しかった。開所セレモニーの国旗掲揚は、スウェーデンを受け持った。すごく緊張したけれど大過なく務められた。仕事は他に会場での選手の送り迎えくらいで、後は適当に競技を見物していればよかった。クレー射撃は打ち出された標的の皿を散弾銃で撃ち落とすという分かりやすいゲームだ。
選手たちはみな陽気で、面白がって私たちに片言の英語で話しかけてくる。男子の間では、選手にねだって、使用済みの薬きょうを集めるのが流行った。優勝したイタリアの選手は標的の素焼きの皿に気楽にサインをしてくれた。
自慢できるコレクションだった五輪の戦利品の数々は、しばらくは勉強机の周りに飾ってあったが、いつの間にかなくなった。特に惜しまれるのは岡本太郎デザインのずっしり重い公式参加メダルだ。机の引き出しに大切にしまっていたのに、高校の頃、家に入った空き巣が持って行ってしまった。
この年は東海道新幹線も開業した。私たちは修学旅行に新幹線を使った最初の中学生だ。日本が元気で、だれもが日々の進歩を実感できた遥か昔の思い出である。

(理事長 田尻 孝二)

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